オーナーズ物語1990年8月26日、某OA機器部品メーカーの駐在員として初めてタイの地を踏む。
バンカディーインダストリアルパークにある会社で副工場長、製造部長、技術部長(一人三役)として四年間の駐在生活を送る。
帰国後、日本本社工場勤務となり、日本で過ごす。
その後一年して、辞令により再びタイ勤務に。
社長役(日本本社社長の息子)より再び副工場長をせよとの命令があるも辞退申し上げ、技術部長として業務をスタート。
副工場長を辞退したのがいけなかったのか、いじめの標的にされる。
社内や客先でトラブルが発生すると、会長役、社長役、工場長を飛び越えて直接本社社長から電話が、
「お前の責任だ」私の業務とは関係ない問題であっても私が悪いことにされてしまう。
都合の良いスケープゴートにされていた感がある。
そんな状況が、数年続いたある日、脱サラを決意し、会社には内緒で自分の家を改造して日曜雑貨の卸を始める。
暫く女房と姉に任せて、軌道に乗ってきた時期を見計らって辞表を提出しようと考えたが、「立つ鳥跡を濁さず」のたとえがあるように、
引き際は、ジェントルにと考え直し、退職伺いを社長役に書面で提出することにした。
翌日、社長室に呼ばれ後任者が決まるまで暫く待ってくれとの話があり、数ヶ月待つことにした。
それから四ヶ月が経った、会社での状況は以前のまま、我慢の限界が近い、もう一度社長役にお伺いを立てる、あと一ヶ月待ってくれれば後任が来るようにするとのこと、あと一ヶ月待つことにした。
時々日本側の状況をチェックしていたが、社長役が日本へ連絡して後任を探している節は、感じられなかった。
そうこうしている間に約束の一ヶ月が過ぎ、私の我慢も100パーセントをオーバーした。
一ヶ月後の日付で辞表を提出した。
忘れもしない1998年5月15日、取り巻くしがらみから解放された。
折りしもタイ国は、1997年7月2日為替が通貨バケット式から変動相場制に変わり、通貨大暴落の後であった。
日用雑貨卸業もその後、継続の困難を極めた、ある日、以前からよくマッサージに通っていた、カオサンエリアのマッサージ店のスタッフにマッサージ店の経営を進められた。
最初は、雑貨店も大変な時期だし、取りあえずやってみるかと言うことで女房をタイマッサージの総本山と言われているワットポーへマッサージの勉強に行かせた。
女房が無事ワットポーの修了書を取得後、当時から日本人がかなり集まっていたカオサンエリアに店舗物件を探す。
これが難航を極めた。
店舗として借りられる場所がない、ようやっとタナオ通りに小さな物件を見つけた。
ビジネスとした試算した規模よりかなり小さい、でも他に物件は無し、しょうがない、取りあえずかりることにした。
こうして、1998年12月6日(アジア大会の翌日です。)マッサージマットが四枚、一度に四人しかマッサージできないスペースから、マッサージ店の創業と成った。
大家の嫌がらせなどで、トイレをロックされるなどの営業妨害を受け、他の物件を探す、今のヴィエンタイホテルが会議室スペースを仕切り
、店舗として貸すことになったので賃貸契約の申し込みをする。
1999年11月17日ヴィエンタイホテルに移転しリニューアルオープンを果たす。
2000年7月同じカオサンエリアに2号店「チャイディーU」をオープン。
2000年11月ゲストハウス運営のためチャイディUをしめる。
2001年1月20日同ヴィエンタイホテル内の別店舗に移り、現在のチャイディーマッサージカオサン1号店の規模となる。
2001年2月都合によりゲストハウスから撤退。
2001年8月某日、日用雑貨卸業を閉鎖。
2004年4月プーケット・パトンビーチに2号店をオープンするも、同年末インド洋大津波により被災、客足が全く途絶えた状況から
不断の努力でプーケット店を立て直す。
2006年8月現在カオサンエリアに3号店を展開準備中。
他の事業展開も構想としてあるが、今のところマッサージ一筋である。
会社退職後、サラリーマンに戻りたくない一心でここまで来たような気がする。
いやそれが偽らざる事実であると思う。
これからもその気持ちは、私の中で継続されるだろう。
将来の夢は、ゴルフバックとカメラを担いで、世界中を旅すること。
只今夢の実現に向けて奮闘中である。国 籍: 日本(今のところタイ人になるつもりは無い)
血液型: O型
年 齢: 何巡目かの酉年!
趣 味: ゴルフ、写真、自店のホームページ制作
9月20日生まれの「乙女座」 |